ヌビア遺跡について様々な情報を紹介します。
ユネスコの世界遺産活動のきっかけとなったのは、アスワンハイダムの建設による水没からアブ・シンベル遺跡をはじめとするヌビア遺跡群を救おうとするキャンペーンでした。
このヌビア地方には、ヌビア人といって、エジプト人とは異なる風貌の人たちが昔から住んでいました。色黒で、ちぢれた髪をもつ人びとです。自分たちはエジプシャンでもアフリカンでもなく、ヌビア人である、という誇りと、持ち前の人懐っこさで訪れる人を温かく迎えてくれます。アスワンの岩窟墳墓のある丘から北を見ると、集落が広がっています。ヌビア村です。岩窟墳墓下の船着場かの近くからは小型の乗合トラックが出ており、チャーターして周ることもできます。ヌビア人は、エジプトの属国として支配されてきた歴史を持ちます。しかしその独特の言語、文化を維持し、現在でもその面影を垣間見ることができます。
エジプトにはハッジといって巡礼に行った人たちが家の壁に絵を描く習慣があります。通常は、サウジアラビアのメッカに至る交通や神殿の絵が描かれますが、ヌビア人の家々の白い壁には、その他にヌビア特有の絵(羽の生えた動物)が描かれています。ヌビア村の家々の玄関先には、魔よけのワニの剥製が飾られていたりします。また、「ヘンナ」と呼ばれる天然の染料でタトゥーを施す習慣があります。ヌビア風のきれいな幾何学紋様のデザインで、3週間ほど持続します。
ユネスコは、1979年にアブ・シンベルからフェラエまでのヌビア人の建造物群を世界遺産(文化遺産)に登録しました。同じ1997年、ユネスコの円状によって、ヌビア博物館がオープンしました。先史時代からイスラーム時代かけてのヌビア地方の歴史、風俗が美しい照明のなかで展示されています。アブ・シンベル神殿の移築の模様も実にリアルに紹介されています。
確かに、アスワンハイダムの建設により、歴史ある遺跡がその存続を危ぶまれる危機に晒されました。しかしそのダム建設により砂漠に緑が戻りつつあるもの事実です。アブ・シンベル神殿には移築の跡が残っています。
美しく整備された中庭を、夕涼みも兼ねてお散歩しながら、歴史遺産の保全と人びとの生活、環境開発の間の問題を考えてみるのもいいかもしれません。
ネット恋愛といった場合、2つあると思います。それは出会いのきっかけをネットに求める、あるいは出会いがネットだったというネット恋愛と、ネットの世界でのみの恋愛を楽しむというものです。
出会いのきっかけをネットに求める、あるいは出会いがネットだったというネット恋愛においては、ネットでスタートして後、実際に相手と会うことになります。
この時気をつける必要があるのは、ネットで抱いた相手の印象と実際に会って持つ印象が違うことがあるということ。ネットでの関係はイメージですから、そして人は自分に都合の良いイメージを抱きたいものですから(その方が楽しく過ごせるから)、会ってがっかりすることも有り得ます。
実際会ってからの恋愛展開は、その他の恋愛と大差はないでしょう。
また「ネットで出会った」というと、どこか白い目で見られがちな風潮があるようです。それは「ネットでの出会い」を求める人たちの中には、不倫相手やセックス相手などを求める人たちも多いからでしょう。
ひな祭りは大変歴史の古い行事です。ひな祭りはまた、現代でも廃れることなく受け継がれている数少ない行事の一つでもあります。
ひな祭りの歴史は、平安時代以前にまで遡ります。日本にはもともと「穢れ」という宗教的な概念がありますが、この穢れを落とすための「禊(みそぎ)」というものが、古代より行われてきました。禊に関する記述は、日本最古の歴史書である『古事記』にも見ることができます。この禊が後にいろいろな習慣と交ざり合い、ひな祭りに発展することになります。
ひな祭りは、最初は季節の変わり目にする水浴び(=禊)と宴で構成された厄払いでした。この習慣は中国から入ってきたものです。しかし平安時代になると、水浴びによって穢れを払うのではなく、紙や植物で作った人形にその穢れを移して水に流す行事に変わります。
その一方、この頃には、上流階級の女の子たちの間で、紙で作った人形や調度品で遊ぶ「ひいな遊び」という一種のままごとが流行していました。この「ひいな遊び」と上記の人形を使った禊の行事が交じり合ったものが、後のひな祭りです。ひな祭りの歴史の始まりは、このようなものであったのです。
セルティックは非常に長い歴史と伝統を誇っている欧州で屈指の名門クラブといえます。
では、そんなセルティックの1990年代前半について簡単にその略歴を書いてみます。
1991年:リアム・ブレイディーがビリー・マクニールに代わって監督の座を引き継ぐことに。
彼はクラブの長い伝統を打ち破る、クラブの歴史で初のセルティックの元プレーヤーでない監督になります。
1993年:セルティックの元プレーヤー、ルー・マカリがリアム・ブレイディーに代わって監督に就任する。
1994年:
海外在住ビジネスマンとセルティックのサポーターであるファーガス・マッカンは、セルティックと縁のある役員を含んだ重役を追い出し、経済的負担を伴ったクラブの経営権を獲得することに。
この直後、元セルティックプレーヤーのトミー・バーンズがルー・マカリに代わって監督に就任します。
そして、マッカンの5か年計画に従って、セルティックは公開有限会社として再度構成することになる。
クラブの発展に続いて、財政再建に1万人が最低で620ポンドの投資を引き受けて、1400万ポンドを寄与するといった、イギリスサッカー史上で最も成功した株式発行となります。
1995年:
セルティックパークの改築工事(動員収容数は60500人で全着席タイプ)の第一段階が行われる94?95年のシーズン中、ホームの試合はハンプデン・パークで行うことに。
スコティッシュ杯決勝では、エアードリオニアンズを制し、30度目の栄光に輝き、また、1989年以来となるトロフィーを獲得し、「スタジアムからの追放」は終了しました。
歴史の町 アユタヤ
バンコクから北へ80キロに、古都アユタヤの遺跡があります。
「アユタヤ」という名称は、インドの長編叙事詩「ラーマーヤナ」物語でラーマ王子の国、インドのアヨーディヤにあやかり、アユッタヤーと名づけたのが始まりと一般に言われています。
スコータイ王朝・・・タイ国家の誕生
タイの最初の王朝は、13世紀にタイ北部(現在のスコータイ)に作られたスコータイ王朝です。
3代目王ラームカムヘーンが、「水に魚あり、田に米あり」と詠った碑文を残すほど、豊かな国だったと思われます。
この王朝は14世紀に入ると次第に衰えてきます。
そしてそれと並行するようにやや南部に建設されたのが、アユタヤ国家(ムアング・・・都市をさす)です。
そしてスコータイ王朝は、アユタヤ王朝の属国になり、アユタヤ王朝は現在のタイ国土の基幹を形成したのです。
アユタヤ王朝の誕生
古都アユタヤは、チャオプラヤー川そその支流に囲まれ、国際的な貿易港として栄えました。
カンボジアのクメール王国(アンコール王朝)を衰退に追いやったのがこのアユタヤ王朝です。
日本の山田長政が活躍したのは、このアユタヤです。
16世紀にビルマ(現在のミャンマー)の侵略によって滅ぼされました。
その後、タイでは、18世紀のトンブリー王朝、チャクリー王朝が続きますが、19世紀、イギリスと友好通商条約(ボーリング条約)を結び、植民地化の危機のなかで独立を維持してきたのです。
アユタヤ王朝はビルマ軍の侵入で廃墟と化しましたが、その広大な遺跡は、かつてのアユタヤ王朝の隆盛を忍ばせます。